甲午農民戦争から日清戦争へ

甲午農民戦争から日清戦争へ

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天津条約のあと、日本国内では、清や朝鮮に対する日本の対応に、反論する者が出てきます。中でも有名なのが、「時事新報」に福沢諭吉が書いた「脱亜論」で、日本はアジアから抜けて、西欧列強の仲間入りをすべきだ(脱亜入欧)、というものです。要するに、伊藤博文が清に妥協したことを、福沢は歯がゆく思っていたのです。

 

甲午農民戦争から日清戦争へ

 

そのあと、日本への米や大豆などの穀物の輸出を禁止する、防穀令というものが出されました。これに対して、日本政府は激しく反発し、防穀令を廃止させ、そのうえ損害賠償までとりました。これによって、朝鮮国内の反日感情が強くなるのは当たり前です。

 

そういった状況があって勃発したのが、1894年の甲午農民戦争です。これは減税と排日を旗印に、農民たちが起こした反乱ですが、別名で東学党の乱ともいわれているのは、この乱に朝鮮独自の宗教である東学の信奉者が関わっていたからです

 

この反乱をやめさせるため、朝鮮政府は清に助けを求め、承諾した清は兵を送り込みました。それにさらに対抗し、日本は朝鮮に兵をすすめ、この乱を鎮圧させました。しかしこれで終わりではなく、その後も日清両軍は争いをやめず、さらに朝鮮の内政へ関わるようになり、それをめぐって対立が激しくなりました。

 

同じ年に、日英通商航海条約を結び、日本は列強の一角を味方につけることができたので、日本は清に対して宣戦布告をして、日清戦争が勃発しました。ちなみに、このイギリスと結んだ条約によって、領事裁判権はなくなり、関税自主権が一部回復し、片務的最恵国待遇も解消され、不平等な関係が少しなくなりました。

 

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下関条約とは?

 

日清戦争は、1894年8月から翌月3月まで続きましたが、結果的には、清軍の近代化が遅れていたため、海戦で差をつけた日本側が、優勢のうちに終結することとなりました。そして、講和条約として、清側全権の李鴻章と、伊藤博文内閣総理大臣、陸奥宗光外務大臣とのあいだで、1895年4月に、下関条約が締結されました。

 

下関条約のおもな内容ですが、@清に朝鮮の独立を認めさせる(服属関係の解消)、A台湾、澎湖諸島、遼東半島の権利を日本に譲る、B清に二億両(当時の邦貨で約三億一千万円)の賠償金を日本側に支払わせる、といったものです。

 

 

それまで「眠れる獅子」とおそれられていた中国に、日清戦争がきっかけになって列強が侵略の歩をすすめます。なぜ日清戦争がきっかけになったかというと、あれだけ広い領土を持っていて、中華思想のもと、2000年にもわたりアジアの国々を無条件で従わせていた中国が、中国側からしたら蛮夷と呼ばれていた日本に敗戦し、不利な条約を結ばされてしまったので、チャンスだと思われたのでしょう。

 

そして、列強の本格的な中国分割が、1890年代後半からはじまります。





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