豊臣秀吉の刀狩令と人掃令

刀狩令と人掃令

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秀吉は刀狩令を1588年に出しています。名目上は、京都の方広寺の大仏を造るのに使われるということでしたが、実際は農民から武器を取り上げるのが目的でした。

 

豊臣秀吉の刀狩令と人掃令

 

そもそもなぜ農民たちが武器を持つようになったかというと、自分たちの土地の安全が保障されていなかったからで、別に武器を使って土地を増やそうとしたわけではありません。農業に専念でき、そして安全さえ保障されていれば、武器を持つ必要はないのです。

 

秀吉が惣無事令を出したことで、すべての戦いが終わりました。刀狩令は「これからも争いが起こらないようにしてくれるのであれば」という条件のもと、実行された命令なのです。

 

1591年、全国を統一したあと、秀吉は人掃令というものを出しています。どういったものかというと、例えば農民は武士にはなれないし、武士から他の身分になるのも禁止、という、要するに武士や農民が身分を移ることを禁じたものです。

 

狙いは、武士と農民の身分をきっちり分けることで、年貢を納めてくれる農民の人口を確実にすることでした。

 

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二度にわたる朝鮮出兵

 

いわゆる朝鮮出兵の時期が、第四期にあたります。この秀吉の意図は、いろいろいわれているのですが、全国を統一したあとの秀吉の目は東アジアに向けられました。おそらく、織田信長から自分への恩賞が身に余るほどだと感じていて、それが秀吉のモチベーションにつながったのでしょう。それを自分の家来たちにもしてあげたいと思うようになったのかもしれません。

 

どんどん土地を手に入れて、家来たちに絶え間なく恩賞を与えていかないといけないようなところが、秀吉の政権にはありました。自分の権力の基盤はそれのみで成り立ってると思っていたため、日本では足りなくなってしまい、海外に目を向けなければいけなくなったのかもしれません。明の皇帝に後陽成天皇を立てようとまで考えていたそうです。

 

秀吉はまず朝鮮に従属するように求めます。最初から東アジアの伝統秩序にしたがおうという気持ちはありませんでした。言うまでもなく朝鮮はそれを拒否したので、秀吉は大量の軍隊を朝鮮半島に投入します。

 

 

まず最初に、1592年に朝鮮半島に攻め入ります。これを文禄の役といい、奇襲というかたちだったので、朝鮮側が対応しきれず、漢城(いまのソウル)から平壌(ピョンヤン)を占領し、加藤清正の軍は朝鮮半島の一番北の豆満江(トマンガン)のちかくまで進むことができました。

 

しかし、だんだん戦況は変わってきます。明からの援軍や、李舜臣が率いる水軍や民兵の活躍によって、豊臣軍は不利になっていきます。仲直りもするわけにいかないので、ついに引き返してしまいました。

 

その5年後の1597年、諦めきれなかった秀吉は二度目の出兵をします。これが慶長の役といわれているものですが、今度は朝鮮側も準備万端だったので、はじめから苦戦し、結局秀吉が死んでしまったことをきっかけに、撤退することとなります。





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