豊臣秀吉による惣無事令とは?

豊臣秀吉による惣無事令とは?

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1585年から1587年が二番目の時期で、秀吉が名目上ではなく、実質的にも天下を統一する時期です。1585年に、まず、長宗我部元親を屈服させて四国を平定します。また、1587年に島津義久を服属させ、九州を制圧します。これで、南蛮貿易などのおかげで発達していた九州を制圧したので、あとは関東と東北のみとなります。

 

豊臣秀吉による惣無事令とは?

 

その頃の感覚としては、都である京都も制圧され、重要なポイントである地域はほぼ秀吉の手中にありましたので、あとは田舎の地域だけということですから、この時点でほぼ日本の支配者になったといっても過言ではありませんでした。

 

それと、名目的にも日本の支配者になっておく必要があったので、同年の1585年に関白に任じられることになりました。

 

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しかし、急ぎ足で「おれを関白にしろ」と強引にいったところで、それはかないません。秀吉が力で全国をねじ伏せていても、関白は五摂家(一条家・二条家・九条家・鷹司家・近衛家)からしか出せないのです。そこで、まずは近衛家の養子になって、いったん近衛秀吉となることにします。

 

次に、五摂家より上の位を自分にくださいと、当時の後陽成天皇に要求します。そこで、秀吉のために特別につくった豊臣という姓を、朝廷が授けることになりました。そして豊臣秀吉となり、さらには太政大臣に就任します。

 

 

朝廷の政務機関である太政官のトップに立つのが太政大臣、そして、朝廷のかわりに政務をとるのが関白ですので、これを合体させて関白太政大臣となりました。その立場になった上で、惣無事例というものを、全国の大名に向けて発します。

 

私、豊臣秀吉が関白として天下の頂点に立ったのだから、もう戦うことは許しません。これからは、戦いで領土の広さを決めていくのではなく、私がすべての大名の領土を決めていくことにします」ということです。





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