小牧・長久手の戦いについて

小牧・長久手の戦いについて

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賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉こそが織田信長の後継者だと、誰もが認めるようになるのですが、一人だけそれに反論した人物がいました。それが、徳川家康です。「信長の後継者は、信長の次男である織田信雄こそふさわしい」と主張したのをきっかけにはじまったのが、1584年の小牧・長久手の戦いでした。

 

小牧・長久手の戦いについて

 

おそらく家康自身は、織田信雄を後継者として豊臣秀吉と戦おうとは考えていなかったと思います。むしろ、そういうことを言うだけ言っておいて、きりのいいところでやめようと思っていたのでしょう。それは、この先なるであろう秀吉政権の時代で自分のポジションを確立しておくためです。

 

決して安全な賭けではありませんが、家康はそういうことが好きでよくやる人でした。こうしてお互いが和解し、そのあとは、秀吉が信長の後継者であるということに反対する人は全くいなくなりました。

 

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太閤検地を始める

 

明智光秀を討伐してすぐ、秀吉は太閤検地といって、領地の検地をはじめています。それまでの検地は自己申告制の指出検地といわれるもので、信長がやったのもそれでした。しかし、太閤検地は、現地に担当の役人が向かって実際に調査をします。

 

しかも、統一単位を新しくつくって測量をおこないました。例をあげると、お米を計る枡を京枡と決めています。そうすれば平等な単位で各地の状況が知れます。土地の所有者や面積、石盛(土地の格付け)を調べて、ていねいに検地帳に記録していきました。こうしてデータをあつめ、米の生産量を石高で書いていって、そこから年貢の量を計算し、徴収していきました。

 

 

また、一地一作人といって、年貢を負担する人を土地の耕作者のみにするという案を採用しました。これは今までにない政策だったので、太閤検地が普及するとともに、今までの荘園制は一気に無くなっていきました。





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