中大兄皇子と中臣鎌足による反乱計画

中大兄皇子と中臣鎌足による反乱計画について

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大化の改新の中心人物である中大兄皇子、のちの天智天皇はこの舒明天皇と皇極天皇の間に生まれました。中大兄皇子は、次の天皇の最有力候補である自分の将来について思い悩んだことでしょう。自分の両親のように蘇我氏に権力の実権を握られたままの状態で、蘇我氏の言いなりのお飾りの天皇として生きていくのか・・・。もしくは、蘇我氏に刃向かって対立し、結局は山背大兄王のように蘇我氏に殺されてしまうのか・・・。

 

中大兄皇子と中臣鎌足による反乱計画について

 

普通の人ならこの二つの選択肢で思い悩むでことでしょう。しかし中大兄皇子は、蘇我氏を討って滅亡させるという三つ目の選択肢を選んだのでした。もうひとりの大化の改新をおこなった人物が中臣鎌足です。彼もまた自分の未来に希望を持てない境遇でした。

 

中臣氏は神道祭祀を司る豪族で、物部の一番の家臣でしたが、物部が倒れて神道から仏教が全盛の世の中になってしまい、中臣氏の仕事の重要性や役割も低くなり、落ちぶれてしまったのでした。第三の選択肢である蘇我氏滅亡という道を蘇我氏の言いなりでなければ生き残れない中大兄皇子と落ちぶれた豪族の中臣鎌足の二人が自らの生き残る道として選び、進んでいったのです。

 

中大兄皇子はさいわいにも蘇我氏と婚姻関係がありませんでした。婚姻関係がなかったために言いなりにならなければ生きて行けないという立場だったのでしょう。もし、蘇我氏との姻戚関係があったならばまだ、生き残る道があったのかもしれません。乙巳の変から大化の改新という歴史に残る大きな政変・改革はふたりのこのような状況の中で計画されていったのでした。





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