享保の大飢饉で吉宗改革が頓挫する

享保の大飢饉で吉宗改革が頓挫する

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徳川吉宗は、講談物や時代劇などでは、すばらしい政治改革をおこなった将軍だといわれていますが、その改革の結果、本当は大変な社会問題が起きていました。吉宗は「米公方」といわれるくらい、お米をたくさん集める将軍として有名でした。

 

享保の大飢饉で吉宗改革が頓挫する

 

彼の改革の基本はお米で、もちろんお米がお金のかわりだったからなのですが、例をあげると上げ米によって、幕府の年貢による収入が一割以上も増えました。定免法や五公五民によっても、徴収できるお米の量はぐっと増えました。

 

その結果何が起こったかというと、米価の暴落です。幕府に入ってくるお米の量は増加しましたが、お米自体の価値は下がり、生産者である農民たちも非常に困りました。

 

 

そこで、打開策として、吉宗は1730年に堂島米市場を公認しました。これは、お米の値段を幕府が操っていこうと考えた末に出した案で、幕府の統制下に置こうとしたのですが、経済は市場によって動くものなので、当然、失敗に終わってしまいます。

 

そして、その2年後の1732年、西日本一帯で長雨が続き、収穫前の米を食べてしまうウンカという害虫がたくさん発生して、享保の飢饉が起こってしまいます。農民からお米を徴収することで成り立っていた吉宗の改革は、巻き上げるお米がなくなってしまうと、定免法がどうのといっても、もはやどうにもできません。その結果、吉宗の改革は途中で終わってしまいました。





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