享保の改革による足高の制

享保の改革による足高の制

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一般的に実力主義の人材登用法のことを、足高制といいますが、実際のところはどうだったのでしょうか。例をあげると、三千石くらいの旗本がなることができる幕府の役職に、大目付というものがありますが、目立った人がいたら、二千石くらいの人でも、千石を増やして大目付にしてやります。

 

享保の改革による足高の制

 

たとえ石高が低くても、能力のある人にはどんどん良い役職を与えていった吉宗は、すぐれた政治家でした・・・といいたいところですが、本当は少し違います。吉宗の前にも、二千石くらいの人を大目付にするために、五百や千石くらいを足してあげたりしたことはあったのですが、これは昇給するのと同じことなので、大目付をやめたとしても、二千五百石や三千石は持ったままです。

 

その人にというより、家に対して与えられるのが、江戸時代の俸給なので、二千五百石の旗本家といえば、普通は石高が減ることはありません。その子どもが家督を継いでも、二千五百石から始まるのです。

 

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しかし吉宗は、昇給させるのは役職についている間だけ、という制度をとっていて、役職をやめたあとは、もとの二千石に戻してしまいました。あまりお金を使わないようにして人材登用をする、というのが吉宗の足高のやり方でした。

 

こう見ると吉宗はケチだなと思われるかもですが、江戸時代の中期ごろは、財政難におちいっていましたので、人事も停滞したままのことが多くありました。もちろん、石高が低い人の中にも、能力の高い人はいました。そういう人を登用したくとも、給料を上げなければいけなかったので、結局「このままでいいか」ということになり、活性化しませんでした。

 

閉塞感があった世の中を変えるにはいいアイディアだったのかもしれませんが、吉宗のほうは、お金をなんとか浮かせて幕府の財政を立て直したいという気持ちのほうが強かったのかもしれません。





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