徳川吉宗の増税と新田開発

徳川吉宗の増税と新田開発

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年貢の取り方を、検見法から定免法に変えたのもこの頃です。検見法とは、その年のお米の収穫量を見て年貢を決めるといった、文字どおり検査して見ること、という意味です。対して定免法は、いつも一定の量の税をかけるという意味で、収穫量は関係ありません。税収が安定しなかったので仕方ないのですが、凶作のときは、納税者(農民)は大変な思いをしました。

 

徳川吉宗の増税と新田開発

 

その税率自体も、四公六民から五公五民に変えていきます。つまり、今までは年貢率が収穫の四割だったのですが、これからは幕府が半分を徴収しますよ、ということです。これが適用されたのは幕府の領土である幕領(天領)のみでした。

 

ちなみに、税率を四〇パーセントから五〇パーセントに引き上げると、幕府の税収は一〇パーセント増えるのではなく、一気に二五パーセント増加します。これは現代の消費税でも同じことですが、五パーセントを一〇パーセントに増やすと五パーセント増えるのではなく、政府の収入としては倍になるということです。

 

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農業技術の発展

 

それから、新田開発にも力をいれていくのですが、こちらにもとてもお金がかかりました。そこで注目したのが、有力な商人たちが持つお金です。裕福な町人に新田開発を請け負わせ、財政難を打破しようとしました。これを町人請負新田といいますが、結局あまりうまくいきませんでした。

 

ただ、この時期は農業が推し進められていたので、農地も増え、お米だけでなくいろいろな作物ができるようになりました。生産性をあげるために、農機具や肥料も改良されました。

 

そうした必要性にこたえるように、農書がたくさん書かれました。これは、農業知識や栽培技術を記したマニュアル本のことです。日本初の本格的農業書として有名なのは、宮崎安貞著の「農業全書」です。また、農政家として二宮尊徳という人物もあらわれ、農村がもっと盛んになるように活躍しました。





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