天明の飢饉と田沼意次の失脚

天明の飢饉と田沼意次の失脚

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東北地方で冷害が発生し、1782年に天明の飢饉が起こります。この天災が一年や二年で済めばよかったのですが、次の年の1783年に、浅間山が大噴火をします。その噴煙が大気圏に突入して太陽光を届かなくしてしまい、江戸では夏なのに雹が降るというような異常気象で、お米はますます凶作でした。結局5年間も、天明の飢饉が続くことになったのです。

 

天明の飢饉と田沼意次の失脚

 

物価は高い、米は収穫できない、まったくひどい状況でした。新田開発のため、田沼は印旛沼干拓、手賀沼干拓などの利根川流域の低湿地を中心に計画をすすめていきましたが、利根川が大洪水を起こしてしまい、1786年、それ以上開発を進めることができなくなります。

 

この頃、都市部の米商人が暴徒化した市民の集団に襲われるという事件がよく起こるようになりました。これを、打ちこわしといいます。だんだん老中・田沼意次に対して不平や不満がたまっていましたが、そんななか、江戸城内で若年寄だった息子の田沼意知が刺殺されるという事件が起き、さらに十代将軍の家治が1786年に死んでしまったので、田沼は後ろ盾を完全に失いました。

 

こうして田沼は職をやめさせられ、彼の時代は完全に終わりを迎えました。





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