嵯峨天皇による中央政治の強化

嵯峨天皇による中央政治の強化

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中央政治の強化と整備が行われたのは、嵯峨天皇の時代です。安全な都づくりをテーマに、検非違使を配置して平安京内の治安を保ったり、裁判をおこなったり、「弘仁格式」がつくられ、法律を整えるなど、嵯峨天皇は色々と考えました。

 

嵯峨天皇による中央政治の強化

 

時代にあわないところもいろいろ出てきていた律令ですが、制定からすでに100年もたっていたので、当たり前といえば当たり前ですね。政治の規範である律令がそれでは困るので、何かあるごとに法令が発足され、補足や修正がおこなわれました。

 

この改定のために発足された法令が「格」で、律、令、格を実施するための、さらに細かく決められた規則が「式」です。格や式が増えすぎて、嵯峨天皇の代には、施行の邪魔になることもあったため、「弘仁格式」でそれらを整理し、編纂してスッキリさせました。

 

 

その後、「貞観格式」と「延喜格式」が編集されました。この三つを総称して三代格式と呼びます。さらに「類聚三代格」がつくられましたが、こちらは三代格を内容別に分けたものです。この頃、税収はもっとよくない状況になりました。桓武天皇がおこなった税制改革はいまいちうまくいかなかったのです。

 

そこで、直営田の経営を政府が手がけることになります。勅旨田は天皇が直営しているものですが、その他に皇族には賜田が与えられ、また、九州の大宰府管内には公営田が設置され、平安京の周辺、畿内地方には官田が設けられました。早急に財源を確保することが何よりも重要な課題だったのです。





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