摂関政治の終わりと前九年の役・後三年の役

摂関政治の終わり

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道長の四人の娘の中で特に有名なのが彰子です。彼女は一条天皇の中宮(皇后よりもあとから入内した天皇の妃)で、同じく一条のもとに嫁いでいた藤原道隆の娘・定子とはあまり仲がよくありませんでした。

 

摂関政治の終わりと前九年の役・後三年の役

 

というのも、藤原道隆のほうが長男で、道長は次男でしたので、本来はその娘である定子は主流派だったのですが、一族の権力争いで敗北してしまい、道長のほうが主流派になってしまったのです。

 

 

実は、「源氏物語」を書いた紫式部がその彰子に仕えていた女房で、「枕草子」を書いた清少納言が定子に仕えていました。「源氏物語」は宮中の華やかな様子を描いてありますが、これは主流派の彰子に仕えていたからこそ描けたものだったのでしょう。

 

それに対して、「枕草子」は随筆ですが、平たく言うと愚痴でもあります。自分が仕えている定子様は、いまは傍流に追いやられている。本当は主流派だったのに・・・・という清少納言の憂鬱な気持ちが作品の節々にあらわれています。

 

 

ちなみに、四人の娘はみんな母親がちがうので、年齢もばらばらです。二番目の娘の威子が姉の彰子の子どものところに嫁いだ、というと変に思うかもしれませんが、問題なかったのでしょう。その頃の女性の年齢についてはいくつなのかはっきりしないので、何ともいえませんが、多少の年齢差は政略のために我慢したのかもしれません。

 

これだけしっかりと張りめぐらされていた道長の外戚関係も、母方の親戚が藤原である体制も、後冷泉天皇のあとは途絶えてしまいます。年齢の差や、血が濃すぎたため子どもができなかったのか、いろいろな事情があったのでしょう。

 

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前九年の役、後三年の役

 

地方武士が力をつけてきたことを象徴する出来事が、10世紀中頃の平将門や藤原純友の反乱でした。1028年に、源氏の東国進出のきっかけとなる出来事が起こりました。平忠常が房総半島で反乱を起こしたのですが、それを鎮めたのが源頼信でした。

 

その頃、豪族の安倍時頼が陸奥(いまの東北地方)で勢力を伸ばしていて、朝廷はそれに脅かされていました。そんなとき、1051年に陸奥守として赴任していた源頼義(源頼信の子)は、自分の息子の義家と一緒に、安倍氏を倒しにいきます。

 

 

とても苦しい戦いでしたが、1062年に、出羽の豪族である清原氏の力を借りることで、やっと安倍氏を討伐することができます。9年間にも及ぶ戦いを総称して前九年の役といいます。この合戦の様子は、「陸奥話記」に綴られています。

 

この戦いが終わったあと、清原氏の勢力がぐっと伸びますが、一族の中で権力闘争が起きてしまいます。勝利したのは源義家の助けを得ることができた清原清衡でした。これを後三年の役といいます。この清原清衡が姓を藤原に改め、藤原清衡となり、奥州藤原氏のはじまるきっかけとなりました。





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