雄略天皇(ワカタケル大王)の政治について

雄略天皇(ワカタケル大王)の政治について

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倭国を統治していたとして讃、珍、済、興、武といった五名の王が「宋書」倭国伝に出てくるのは5世紀になってからです。この頃になると中国の史書に日本に関したことがふたたび書かれるようになります。日本列島の相当広い地域を支配していたと思われる五番目の王、倭王武は雄略天皇(ワカタケル大王)ではないかと予想されています。埼玉県や熊本県から「獲加多支鹵大王」と印された刀や鉄剣が見つかっているからです。

 

雄略天皇(ワカタケル大王)の政治について

 

彼ら倭の五王たちは朝鮮半島南部の鉄資源を獲得していったのですが、それはなぜでしょう。彼らは日本の中で自分たちの支配する地域を伸ばしていくことが目標でした。そのためには軍事力がなくてはならなかったので、武器の材料である鉄を求めたのです。卑弥呼が中国に求めたのは中国と仲良しな日本の国王「親魏倭王」でしたが、倭の五王が求めた称号はそれとはまったく違うものでした。

 

あくまでも倭国側は国内での力を高めていこうという目標の下行動していたので、中国側に「朝鮮半島南部で軍事活動を行ってもいいですよ」と承認させることで軍事権を利用して鉄資源を朝鮮半島南部(新羅や任那、加羅など)で調達しようとしたのです。3世紀と5世紀では両方とも中国を背景に動きがあったのは確かですが、支配の方法も目標も、大いに違っていました。





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