幕末政治と倒幕運動の表面化について

幕府と朝廷の動き

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まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。

 

幕末政治と倒幕運動の表面化について

 

さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。

 

一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚寺統が亀山天皇の血統、持明院統が後深草上皇の血統です。

 

どちらも、次の天皇を自分の系統のなかから出したいと考えていたために起こった対立でしたが、両統迭立といって、大覚寺統と持明院統から交互に天皇を立てるといった折衷案を幕府が提案し、お互いが納得しました。そこで後醍醐天皇が即位することとなりました。

 

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表面化する討幕運動

 

院政の廃止、天皇の親政を後醍醐天皇が最初におこないました。その頃、院の力は無いに等しいといった状態で、天皇がある程度年をとると、定年退職のようなかたちで院になってもらい、新しく天皇を立てるといった状況でした。幕末の1840年頃まで院政自体は細々と残っていくのですが、中身はそんなものでした。

 

しかし、後醍醐天皇がいくら純粋な親政をおこないたくても、鎌倉に幕府が存在しているあいだは、自分のみで政治をおこなうことはできません。しかし、その幕府の内外には、不平・不満がたくさんありましたので、後醍醐天皇はそこを刺激しつつ、二度の討幕運動を開始します。

 

ですが、1324年に起こした最初の計画である正中の変は、すぐにばれてしまい不発に終わり、1331年に起こした二度目の元弘の変も、あえなく失敗に終わり、1332年に後醍醐天皇は隠岐に島流しにされてしまいます。

 

 

平安時代に、院政を停止させるために平氏が後白河上皇を閉じ込めたことがありましたね。このとき、それがきっかけで平氏に対する反発を招いてしまい、結果的に平氏は滅びてしまいましたが、今回も後醍醐天皇が島流しにされたことをきっかけに、幕府に対する反発や危機感が一気に大きくなります

 

そうした空気をよんで、討幕の令旨を後醍醐天皇の子である護良親王が出し、それに応えるように、楠木正成、新田義貞などが兵を挙げました。ちなみに、楠本正成は非御家人です。このとき動いた非御家人は朝廷の言うことをきく武士で、元寇が起こる前までは、あっちはあっち、こっちはこっちというスタンスで、御家人と非御家人はお互いを邪魔することなく存在していました。当時は朝廷の土地がありあまるほどあったので、その土地を管理することで生活していけましたから。

 

 

しかし、元寇が起こってからは、「非常事態のときは命令を聞きなさい」と非御家人にも幕府の力が浸透してきたので、それに対して危機感を感じているというところもありました。対して、新田義貞は御家人です。つまり、朝廷側と、幕府側の中で、長崎高資に対して良く思っていない得宗専制の勢力が一気に立ち上がったということです。もともと幕府の配下だった足利尊氏(高氏)も、幕府に愛想が尽きて敵になっています。

 

1333年、鎌倉で執権・北条高時が新田軍に倒され、京に上った足利軍は六波羅探題に攻め入ります。なんと、このもともと御家人の足利尊氏という人は、討幕の動きを止めろと命令を受けて京に向かったのですが、京で寝返って、六波羅探題を攻め落としてしまったのです。ほどなく、鎌倉幕府は滅亡の道をたどることとなります。





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