征韓論と藩閥政治に対する不満

征韓論と藩閥政治に対する不満

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1873年には征韓論でほぼ決定していたのですが、そこに岩倉使節団が帰国します。ヨーロッパを見てきた結果、彼らは内治の要を痛感していました。「いまは植民地を増やしている場合ではない。彼らはものすごく近代化されているから追いつくのは難しいし、外国と対等に渡り合っていくには、まずは国内の政治体制をしっかり固めていくべきだ」と、視察から帰ってきた人たちが中心となり、征韓論に反対します。

 

征韓論と藩閥政治に対する不満

 

じつは、ここで藩閥というものができあがっていたのです。時の権力者であった伊藤博文や木戸孝允は長州出身で、岩倉具視や三条実美は公家です。そして大久保利通と西郷隆盛は薩摩、板垣退助と後藤象二郎は土佐出身です。江藤新平と副島種臣は肥前でした。

 

つまり、征韓論が否決された最も大きな理由は、薩長閥、征韓論に反対した人たちが薩摩・長州の出身だったからです。その頃の明治政府は、俗に「薩長土肥」と言われているくらい、薩摩・長州の意見は重要視されるのですが、土佐・肥前の意見は通らないというのが普通でした。

 

これに対して、当然土佐・肥前の人たちを軸に反発が起こってきます。そこに自由民権運動が起こり、薩長にかたよっている政治をやめて、国会をつくれ、という主張がおこなわれるのです。

 

具体的には、1874年に、国民から選ばれた人による議会をつくってほしい、という内容の民撰議員設立の建白書が政府に提出されます。その翌年の1875年には、愛国社が設立されました。





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