讒謗律と新聞紙条例による弾圧とは?

讒謗律と新聞紙条例による弾圧とは?

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じつは、岩倉使節団の一員であった木戸孝允も、新政府をやめています。1874年、琉球を日本に帰属させようという動きのなか、台湾出兵(征台の役)が起こります。内治の要を優先していた木戸孝允は、征韓論のほかにこれにも反対していて、筋はしっかり通っていたのですが、結局政府をやめることになりました。

 

讒謗律と新聞紙条例による弾圧とは?

 

これで、明治新政府の主要メンバーは、伊藤博文と大久保利通だけになってしまったので、政権運営に支障をきたします。なので、1875年に大阪で大久保利通と板垣と木戸が話し合いをおこない、政府に戻るように説得しました(大阪会議)。

 

それでも、反発している人には、讒謗律新聞紙条例を出して圧力をかけました。讒謗というのは、政府の悪口を言ったら処罰しますよという法律で、名誉棄損のことです。新聞紙条例は、政府の批判を新聞に書くことを禁止するという条例です。

 

なぜ、自由民権運動が盛り上がったかというと、その原因の一つに、民撰議員設立の建白書の内容が新聞に載ったことがあげられます。ただし、日本の新聞に載る内容は全部、明治政府の御用ジャーナリストが書いたものなので、ここには載りませんが、「日新真事誌」というイギリス人が居留地でつくっていた新聞は検閲を受けないので、そちらに載ったのです。





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