義和団の乱(義和団事件)から北清事変へ

義和団の乱から北清事変へ

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清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。これは、日本が侵略してきたときに盾になってもらうかわりに、ロシアに満州の権益を与えるというものでした。そして、その密約の一つとして、旅順・大連を1898年にロシアに租借させました。

 

義和団の乱(義和団事件)から北清事変へ

 

しかし、中国の民衆から、中国の国土がどんどんヨーロッパに占領されていく現状に対して反乱が起こります。それが、1899年の義和団の乱で、義和団という宗教をバックにしたものです。

 

義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、中国はもともとは強い国なんだから、毅然とした態度をとってはねのけるべきだと主張します。このスローガンを「扶清滅洋」といい、その義和団の乱に後押しされるようにして、1900年に北清事変というものが勃発します。

 

ちなみに、民衆が反乱を起こしたのが義和団の乱ですが、北清事変は義和団に影響されて清政府が起こした連合軍との戦争です。その連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのは日本です。「極東の憲兵」といわれるほどすごい活躍で、日本の軍事力を欧米列強に見せつけることに成功しました。

 

結局、北清事変は清側が敗北し、連合軍側が勝利しました。そして、講和条約のような北京議定書が結ばれました。そのなかで問題となったのは、もっとも活躍したのは日本のはずなのに、満州駐在兵(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになってしまったということでした。

 

結果、日本の中では、ロシアに対しての反発意識がどんどん強くなっていきました。





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