日露戦争とポーツマス条約について

日露戦争とポーツマス条約について

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軍事的に日本側が勝利していた日露戦争ですが、ロシアは白旗をあげたわけではありませんでした。いくら軍事的に勝ったとはいえ、ロシアは大したダメージを受けていなかったので、長期戦になることが考えられました。

 

日露戦争とポーツマス条約について

 

長期戦は、日本はあまり向いていませんでした。なぜかというと、国家の予算をはるかに超えた金額を費やして、九割方は外債(外国からの借金)と内債で戦争をおこなっていたので、このままずっと戦争が続いてしまうと、継続すらできなくなるのです。

 

ならば、ロシア側にチャンスがあったかというと、ロシアはロシアで事情があり、そういうわけにはいきませんでした。血の日曜日事件にはじまる第一ロシア革命が1905年に起こってしまい、ロマノフ王朝そのものが危なかったのです。

 

むしろ、日本のほうが救われたといっても過言ではありませんでした。そこで、アメリカのセオドア・ローズベルト大統領が仲立ちをして、日本側全権・小村寿太郎外相、ロシア側全権・ヴィッテとのあいだで、ポーツマス条約が締結されました。

 

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日比谷焼き討ち事件

 

間違えて認識している人がいるかもしれませんが、日露戦争勃発後のポーツマス条約とは、けっして日本の軍事的勝利に対する講和ではありません。日清戦争の時は、日本の軍事的勝利に対しての講和だったので、日清戦争は日本側が勝ったといえるのですが、日露戦争の場合は違います。

 

国力の限界を感じていたのが日本、国内が混乱して戦争どころではなくなったのがロシアなので、どちらも戦争を継続することができなくなったため、それによる講和だったので、痛みわけといったところでした。

 

日露戦争とポーツマス条約について

 

しかし、講和会議では、まず日本は旅順・大連の租借権をロシアから奪い、他にも、ロシアの所有していた長春以南の鉄道(のちの南満州鉄道〔満鉄〕)の権益も手に入れることに成功しました。さらに、樺太の南半分の領有権と、韓国に対する監督権も取得しました。

 

つまり、軍事的に勝利したとはいえない状況で、そこまでの条件を認めさせたのは、すごいことだといえます。しかし、痛み分けといった状況だったので、賠償金はとれませんでした。ロシアに賠償責任を問いづらいというわけです。

 

 

しかし、その頃の国民は日本側が大勝利したと思っていたので、なぜロシアから賠償金がとれなかったのかと、反発が起こります。「国家予算をはるかに超えた金額を使って戦争をしたのに、賠償金が一銭もとれなかったとは一体どういうことだ。税を無駄遣いしただけじゃないか」というわけです。

 

そのため、東京・日比谷公園で講和条約反対の決起集会を開いていた民衆の一部が暴徒化してしまい、政府寄りの国民新聞社や、内務大臣官邸、近くの交番などを襲撃して壊したり、火をつけたりという暴動事件が勃発しました(日比谷焼き討ち事件)。





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