軍部大臣現役武官制の登場について

軍部大臣現役武官制の登場について

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大隈内閣の次に登場するのが、第二次山県内閣で、1898年11月に発足します。政府に対して民党がなかなか文句を言えない状況があったというのもありますが、山県有朋は、民党の言うことなどまったく気にするそぶりもなく、それまで政府がやりたかったことを次々におこなっていきます(超然主義)。

 

軍部大臣現役武官制の登場について

 

最初に、地租の増徴をおこないました。はじめは地租は三パーセントだったのですが、それが一旦下がって二・五パーセントになっていたところを、一気に三・三パーセントまで引き上げました。

 

次に、政党員が政治力で高級官僚になることを制限するために、文官任用令をあらためました。また、陸軍大臣と海軍大臣に関して、現役の軍人でなければいけないとし、軍部大臣現役武官制というものを定めました。政党の出身で、軍事費削減を主張しているような人は大臣になれないようにしたのです。

 

逆に考えると、軍部に反対されるような内閣はつくれないということなので、軍部が勢力を持つことにつながる政策といえます。さらに、1900年に治安警察法というものを制定し、労働運動、社会主義運動の取り締まり、政治運動の取り締まりを強化しました。

 

 

このように、民党の反発のおかげでできなかった政策をどんどん実行していったのです。もちろん、さまざまなことを決めるには、議会での議決が必須です。この頃憲政党が、憲政党と憲政本党に分かれてしまっていて、その中で議席数が多かった旧自由党系の憲政党が山県内閣を支持したため、実現することができました。

 

その理由といえばいろいろあるのですが、やはり政権内部にずっと残りたいという意思が強かったというのが最大の理由かもしれません。





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