足利義教への反乱である永享の乱

足利義教への反乱である永享の乱

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そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。

 

足利義教への反乱である永享の乱

 

関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。

 

永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440年に結城合戦が勃発します。足利持氏の子を立てて結城氏朝が反乱を起こしたのですが、結局鎮圧されてしまいます。

 

つまり、この時点で関東は将軍・足利義教の言うことを聞かなくなってきたということが分かります。

 

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将軍の権威が失墜する

 

そして、このあと、ある大事件が起きます。なんと、将軍・義教が播磨の守護・赤松満祐に暗殺されてしまうのです。これを1441年に起こった嘉吉の変といいます。「ずっと恐怖政治が続いていたら、いつか自分もつぶされてしまうかもしれない。それならいっそのこと、こちらから・・・」と考えた赤松満祐が、自分の家に将軍を招待して、手配の者に殺させて、その上火を放ちました。これは将軍家はじまって以来の大惨事です。

 

 

結局、追討軍によって赤松満祐も倒されてしまうのですが、幕府の威光はますます衰退していきました。その後、七代目として義勝が将軍に就任しますが、将軍が代変わりするタイミングを狙って、嘉吉の徳政一揆というものが起こります。

 

これは、文字通り徳政令を求めて起こした一揆なのですが、義勝はそれを認めてしまい、徳政令を出してしまいます。つまりこれは、将軍の権威が衰えていたからこそ起こったことです。幕府が土一揆(農民などの反抗行動)に従ったのですから。





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