道鏡と宇佐八幡宮神託事件について

道鏡と宇佐八幡宮神託事件について

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道鏡は、称徳天皇のもとでむくむくと力をつけていきました。その理由には、称徳天皇の病気を治したということと、聖武天皇が宗教にのめりこみ、仏教勢力の勢いを強くしてしまったことなどがあげられます。

 

道鏡と宇佐八幡宮神託事件について

 

道鏡は太政大臣禅師という地位にいましたが、さらに宗教的にも最高の権力を持っていて、政治も動かすことができるというポストを称徳天皇から与えられることになります。これが法王という地位で、称徳天皇が道鏡だけのためにつくった地位です。

 

その次の年には、寺院以外はこれよりさらに土地を開墾して私有化してはいけない、という法令を発表します。これが寺院以外の加墾禁止令です。このように、道鏡は仏教界のためだけになる政策を推し進めていきます。

 

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ただ、道鏡は考えます。藤原仲麻呂の権力は光明皇后あってこそのものでした。自分も現在、称徳天皇を後ろ盾として権力を握っています。もし後ろ盾がなくなったらと思うと、自分の地位も決して揺るぎないものではないからです。

 

実際に、称徳天皇は769年にまたしても重病にかかってしまい、道鏡はその当時の病気治療の方法であった加持祈祷で治そうとしますが、なかなかうまくいくものではありません。もしこのまま称徳天皇が死んでしまったら自分の地位も危ない、と道鏡は考え、何とか方法はないかと考え続けた結果、「みずから天皇になること」を答えとして出しました。

 

そこで彼は「道鏡を天皇にすべし」と宇佐八幡宮(現在の大分県)の託宣があったことを利用して、天皇になろうとしました。これが宇佐八幡宮神託事件です。神様の力をつかって天皇になろうとした道鏡ですが、僧侶なのですから、本当は仏様の力を借りたほうがよかったでしょうに、そうはしなかったようです。

 

 

朝廷は、この神託が本物なのか偽物なのか調べるように、和気清麻呂という人物に命じます。「これが本物だといえば、悪いようにはしないよ」と道鏡は和気清麻呂をそそのかしたようですが、清麻呂は「そういう神託はございませんでした」と一蹴します。

 

道鏡はこれに腹を立て、和気清麻呂の名前を「別部穢麻呂」とさせたうえに、大隅(現在の鹿児島県)に島流しにしてしまいます。結局、翌年の770年に称徳天皇は病死してしまい、道鏡は天皇になれず、藤原仲麻呂と同じく後ろ盾を無くした彼の力は、坂道をころがるように落ちていきました。





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