日本のファシズムの形成について

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昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。これは、簡単に言えば、カルテルの結成を助ける法律です。

 

日本のファシズムの形成について

 

重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。この法律の趣旨としては、「重要な産業はつぶれては困るので、大企業と合併しなさい」ということでした。その結果、政府にとっての重要な産業を、四大財閥が独占していきました。

 

金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界は三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行が牛耳ることになりました。さらに昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれ三井、三菱、住友、安田のことを指しました。五大銀行から第一がいないだけですね。

 

二つの恐慌が起こったことにより、日本の経済は財閥が牛耳ることになります。そしてこのあと、日本の政治に関しては軍部が独占することになります。日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、一番儲かる商売に手を出すようになり、要するにそれが戦争でした。こうやって、日本がファシズムにいたる原因の一つが、ここで出来上がったのです。

 

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ロンドン海軍軍縮会議と首相狙撃

 

1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに浜口内閣の外務大臣・幣原喜重郎が参加しました。主力艦の保有制限を決めた1921年〜22年のワシントン会議に続いて、補助艦の保有がこのロンドン海軍軍縮会議で制限されました。

 

ワシントン会議では海軍にとって不満が残る結果だったので、幣原外相に圧力をかけたのですが、結局、ロンドン会議も満足のいく結果ではありませんでした。浜口内閣は協調路線だったので、反対している海軍を押し切って、その妥協案でロンドン海軍軍縮条約に調印しました。

 

日本のファシズムの形成について

 

これに対して海軍や右翼勢力は、「軍部のことを軍の許しがない状態で決めることは、統帥権を干犯するものだ」と反対しました(統帥権干犯問題)。「干犯」とはどういう意味かというと、文字どおり、他に干渉することでその権利を犯すということです。

 

なんとか条約の批准に漕ぎつけた浜口内閣でしたが、東京駅で右翼の青年に狙撃された浜口首相は重傷を負ってしまい、内閣は退陣しなければいけなくなりました。さらにこの時、金解禁をするような政党内閣ではなかなか景気がよくならないからと、軍部政権樹立を目指してクーデター未遂事件が起こっています(三月事件)。

 

浜口内閣が退陣したあとは、与党は変わらず立憲民政党のまま、若槻礼次郎が総理大臣に就きます(第二次若槻内閣)。





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