二個師団増設問題とは?

二個師団増設問題とは?

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大正時代は、二つに分けて見ていきましょう。1912年の大正時代のはじまりから、第一次世界大戦を経て、米騒動で1918年に寺内内閣が退陣するまでの時期を前半とし、1918年の原敬内閣の成立から関東大震災が起こり、1926年に大正時代が終わるまでを後半とします。

 

二個師団増設問題とは?

 

明治天皇は1912年にこの世を去り、次に大正天皇が即位しましたので、ここから大正時代がはじまります。こちらで書いたように、その頃は桂太郎と西園寺公望が交互に内閣総理大臣に就任していた桂園時代でしたが、第二次西園寺内閣だったこの年に、二個師団増設要求が陸軍者から出てきます。これは、朝鮮に陸軍師団を一つ増やしてほしいという意味です。

 

その2年前の1910年に日本は韓国を併合していますが、中国で1911年に辛亥革命が起こり、中華民国(臨時大統領は孫文)が1912年に建国されました。

 

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なぜ二個師団増設を求めたかというと、このように中国が混乱しているときだったので、日本が勢力を伸ばせるチャンスだと考え、大陸進出の拠点になる朝鮮に、二個師団を増やしてくれということでした。

 

その頃、西園寺は恐慌対策に追われている最中でしたから、「そんなお金はない」といって、この要求を拒否しました。それに怒った陸軍大臣・上原勇作は単独で大臣を辞めてしまいます。ここで問題が起こりました。以前制定された軍部大臣現役武官制というものがありましたね。

 

上原が陸軍大臣を辞任したあと、西園寺が新たに陸軍大臣を任命すればよかったのですが、陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人に限るという規定があったため、陸軍者から大臣を出すべきなのですが、その陸軍者が、西園寺内閣には陸軍大臣を設けないという意向を示していたので、後任が決まりませんでした。

 

結局、陸軍大臣が決まらなかったという前代未聞の理由で、西園寺内閣は瓦解してしまいました。大臣が一人でも欠けてしまうと、内閣は機能しなくなってしまうのです。





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