磐井と新羅による反乱である磐井の乱

磐井と新羅による反乱である磐井の乱

このエントリーをはてなブックマークに追加  

527年、大伴氏が衰退するきっかけになる事件が発生しますが、それが筑紫国造磐井の乱です。その頃ヤマト政権の国をコントロールする力はそこまで強くなかったのです。それはなぜかというと、ヤマト政権が国を直接まとめていたのではなく、地方はそれぞれの豪族が各々の土地を支配し、その豪族が大王に服従するとの意思を表して家来となり、姓という称号を授けられ、はじめて誼を結ぶというかたちで統治されていたからです。

 

磐井と新羅による反乱である磐井の乱

 

当然、それを良く思わない地方もありました。「ヤマト政権には簡単には与しない」、「自分たちのほうがもっと力がある」という反発の意思を特に強く持っていたのが九州の筑紫地方でした。そして、ついに磐井と新羅が手を組み、反乱を起こします。これが磐井の乱です。半島南部を支配しようとしていた新羅と日本は仲が良くありませんでしたし、百済とヤマト政権自体が通じていたのもあり、お互いの利害が一致したのでしょう。

 

大伴金村はこのとき部下の近江毛野を送り込んで物事の沈静化を計ったのですが、結果、磐井の乱を鎮圧したのは物部麁鹿火という人物で、失敗した大伴氏はこれをきっかけに信頼性を失うことになりました。時を同じく、磐井の乱が起こったのは地方に対して締め付けがゆるすぎたためだ、もっと締め上げようという動きが政権内で起こったため、監視を強めるために屯倉を増やすことになりました。

 

屯倉というのは、朝廷の直轄地である土地のことです。建物ではなく、財産そのものです。これを取り締まっていたのが蘇我氏でしたので、大伴氏の勢力は弱り、物部氏と蘇我氏が台頭することになったのです。





このエントリーをはてなブックマークに追加