蘇我氏の独裁政治の始まり

蘇我氏の独裁政治の始まり。物部氏との対立について

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仏教の伝来という出来事が起こったのは、「上宮聖徳法王帝説」(聖徳太子の伝記)を見ると大伴金村が物部尾輿に失脚させられる直前の538年と記されています。この仏教をめぐって物部氏と蘇我氏の間に亀裂が生まれます。というのも、物部氏は廃仏派、蘇我氏は崇仏派だったので、仏教に対する考え方が全然違っていたのですが、実際は仏教をめぐっての確執というよりも、皇位継承問題での対立によるところが大きかったようです。

 

蘇我氏の独裁政治の始まり。物部氏との対立について

 

物部と蘇我が欽明を天皇にすることでそれぞれが力をつけたのは前述した通りですが、それによって誰が次の天皇を立てるかで力を持つものが決まる、という状況ができあがってきたのです。物部氏と蘇我氏の間に亀裂が生じたのは欽明天皇の死後、その息子の敏達のあと、用明天皇の次をだれにするかで揉めた時です。

 

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天皇の直系の子どもが居ればほぼ順当に後継者が決まるので問題ありません。しかし、欽明天皇、敏達天皇(宣化天皇の娘である石姫が母親)と続いた後の用明天皇の母は蘇我稲目の娘(堅塩姫)だったので、物部氏の力は弱まり、蘇我氏が力をつけてきます。このとき既に稲目は死亡していて、蘇我馬子の時代になっていましたが、彼は当然用明天皇の後も自分の血筋から出したいと考えました。これが物部氏との確執をさらに深めました。

 

結局、物部氏は蘇我氏に滅ぼされ、蘇我稲目の娘である小姉君の子どもの崇峻天皇が後継ぎとなりました。つまり、大伴とのつながりが強かった継体・安閑・宣化の時代は大伴との親族関係はなく、欽明・敏達の代まではそうだったのですが、その次の用明天皇の世代になると完全に皇族の直系という人がいなくなってしまったので、蘇我氏がそこをうまくやり、豪族の娘と天皇の間にできた子どもを次の天皇として立てるという流れをつくったのです。

 

 

これは、平安時代の藤原道長を軸にした摂関政治と同じで、天皇と力を持った人物が親族関係を保つことで権力を保有していく、というやりかたです。この後しばらく天皇になったのは完全に蘇我氏の息のかかった人物ばかりで、崇峻天皇の後の推古天皇は蘇我稲目の孫にあたる人物ですし、蘇我氏の味方をして物部討伐戦争に参戦した聖徳太子も蘇我稲目の孫の用明天皇の子どもで、さらにその母親も穴穂部皇女といって稲目の孫にあたる人物でした。





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