壬申の乱とは?

壬申の乱とは?

このエントリーをはてなブックマークに追加  

天智天皇には弟がいました。天智天皇は、この大海人皇子・・・のちの天武天皇が、いつか自分に反逆してくるのではないかと疑っていました。そこでまず、天智天皇は自分の娘の?野讃良皇女(のちの持統天皇)を大海人皇子に嫁がせました。

 

壬申の乱とは?原因や勝者などについての理解

 

しかしそれでも、弟に対しての疑う気持ちは強く、消えることはありませんでした。兄から信用されていないことに気付いた大海人皇子は、このままではいつ殺されるか解らないと思いました。そこで、兄から逃れるために、奥さんの?野讃良皇女までが本当に気が狂ったのではないかと勘違いするくらいの、迫真の演技で兄をだまして、南の吉野に逃げました。

 

スポンサーリンク

 

671年・・・天智天皇は、「あいつは気が触れたからもう大丈夫。」とだまされて安心したまま、息子を次の天皇にするようにとの遺言を残して亡くなりました。ところが天智天皇の死後、近江に遷都したことに対して不満を待っていた飛鳥の有力な勢力が、大友皇子が天皇になることを阻止しようと、吉野に避難していた大海人皇子を天皇に立てようと動き出したのです。

 

このまま近江に都が移ったままでは、大友皇子がそれを引き継ぐことによって、飛鳥の政治が完全に否定されてしまうということに対する怒りと天智天皇がおこなってきた自分に危険だとみなした人物をことごとく殺害するという恐怖政治に対する反発からです。

 

 

大友皇子のまわりには側近しかいませんでした。一方の大海人皇子のもとには、天智天皇の政治に反発していた飛鳥の有力勢力をはじめとする多数の人が集まりました。この対立が大きくなり、672年に壬申の乱が起こりましたが、勝敗は明白でした。飛鳥勢力が勝利して、大海人皇子は天武天皇として即位しました。都も近江から再び飛鳥に戻しました。

 

飛鳥浄御原宮です。独裁政治の結末にこのようなパターンはよくありますね。独裁者が生きているうちは、家臣たちは絶対服従をしているように見えますが、いざ独裁者が死ぬと、手のひらを返したように反発されるのです。蘇我氏から朝廷に実権を戻そうとした天智天皇ですが、その過程であまりにも大きなブレが生じてしまったようです。





このエントリーをはてなブックマークに追加