天智天皇の正体について

天智天皇の正体について

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この頃の朝鮮半島の動きとしては、660年に百済が唐・新羅連合軍によって滅亡します。ヤマト朝廷が救援を出しましたが、663年、白村江の戦いで敗退してしまいます。中大兄皇子は、それらのことがあったなかで、ひとまず落ち着いた668年に都を近江大津宮(現在の滋賀県)に移し、天智天皇として即位しました。

 

天智天皇の正体について

 

天智天皇は、自分の息子である大友皇子に次の天皇を継がせたいと考えたのです。そこでみずからの系列を確かなものとするために自分と大友皇子の邪魔になる人を次々に殺していくのです。前述の孝徳天皇を倒し、有間皇子を殺害、さらに古人大兄皇子も倒しました。

 

また、蘇我倉山田石川麻呂などは、乙巳の変の時には自分に味方し蘇我氏の滅亡に協力してくれたにもかかわらず、蘇我系の人間という理由で滅ぼしてしまいました。自分の息子に後を継がせるために、周りにいる自分の地位を脅かしそうな人物や、次期天皇候補になりうる人を次々と殺害していくという冷酷なことをおこなっていったのです。





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