安政の大獄と桜田門外の変について

安政の大獄と桜田門外の変について

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この頃、将軍継嗣問題というものもあって、それがもう一つの伏線になっていました。十三代将軍・徳川家定には子どもがおらず、そのうえ病弱でした。そこで、跡継ぎをどうするかということで、一橋派と南紀派の派閥で対立が起こっていました。

 

安政の大獄と桜田門外の変について

 

御三家の紀伊藩主・徳川慶福を立てようとしたのが南紀派で、家柄重視だったので、譜代大名の応援を受けました。

 

対して一橋派は、政治手腕に長けているということで、前水戸藩主・徳川斉昭の子である一橋慶喜を立てようとします。こちらを応援したのは、越前藩主の松平慶永や、薩摩藩主の島津成彬たちで、いわゆる改革派です。

 

しかし、大老に南紀派の井伊直弼が就任したので、一橋派は押し切られてしまい、徳川慶福が次の将軍を継ぐことになりました。これがのちの十四代・徳川家茂となるのですが、改革派である一橋派の諸大名はもちろんこれに反発します。

 

 

こうして、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の両方から反発を受ける井伊直弼ですが、彼はその人たちを徹底的に弾圧していきます。この1858〜59年の一連の弾圧が安政の大獄とよばれているもので、開国に反対した公家や一橋派、幕府のことを批判した橋本佐内、吉田松陰たちが処刑されました。

 

そして、それに対してさらに反発意識が高まり、翌年の1860年、大老の井伊直弼が江戸城の桜田門外で、水戸浪士に暗殺されるという事件が勃発しました。これが桜田門外の変です。





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