宗専制政治の反乱による霜月騒動

得宗専制政治の反乱による霜月騒動

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そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。

 

得宗専制政治の反乱による霜月騒動

 

しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。

 

得宗を補佐するのが内管領で、その下には御内人がいます。得宗と御家人による寄合で幕府の政策が決まりました。内管領と御内人は得宗の配下ですが、御家人より御内人のほうが力をもち、だんだん御家人は政治から遠ざけられるようになり、得宗専制政治がおこなわれるようになりました。

 

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北条が力をもちすぎているので、当然御家人のほうは面白くありません。その反発がついに表面化して戦いに発展したのが1285年で、霜月騒動とよばれました。これは内管領である平頼綱と、有力御家人の安達泰盛の戦いです。得宗家の家来である内管領ですが、得宗から見ても元々は御家人の一人でしかありません。

 

つまり、安達泰盛は御家人ですので、内管領は自分にとって格下なはずなのに、その内管領が政治を独裁的におこなっているとなれば、それに対して反発したくなっても当たり前です。しかし、結局平頼綱が安達泰盛とその一族を滅ぼしてしまいます。冷徹なようですが、霜月騒動の結果は御家人たちの力の低下を象徴していたともいえます。

 

幕府側も、窮乏化する御家人達の反発を放っておくわけにはいかず、永仁の徳政令を1297年に出します。20年以内であれば、御家人が他の御家人に売り払った土地でも無条件で取り戻せるというものです。

 

 

しかし、何度も借金をチャラにしますよ、というようなことができるはずがありません。また、永仁の徳政令では、金銭が関係する御家人同士の争いには幕府は関与しません、としてしまったので、社会そのものがギスギスしてきます。





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