鎌倉新仏教の特徴・特色と禅宗について

鎌倉新仏教について

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皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。

 

鎌倉新仏教の特徴・特色と禅宗について

 

そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。

 

専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の子どもであったり、立派なお堂をつくったり、たくさんお金を寄進したり、そういうことではないのです。

 

この考え方をさらに深めていったのが親鸞の浄土真宗で、悪人正機、つまり「煩悩が深い人ほど、仏に救われる」という意味の教えを説きますが、これも「悪い人ほど救われる」ということではありません。

 

「今まで一度も悪事を働いたことのない人は、そのままでも極楽に行けるが、そんな人など世の中には存在しない。悪いことはしたことはあるけども、心を入れ替えて、仏に対する気持ちをもって、一生懸命念仏を唱えなさい。阿弥陀様はきっと見ていてくださって、救いにきてくれる」

 

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悪人正機とはそういう考え方のことです。何だかキリスト教の教義と似ていますね。一遍は、時宗を開祖した人ですが、基本的な理念は一緒でしたが、楽器を鳴らし、踊りながら念仏を唱える踊念仏によって、いろいろな所で布教活動をおこないました。遊行上人とよばれるのは、それが所以です。

 

他にも日蓮という人がいて、彼は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きましたが、この人は「法華経」こそ釈迦の教えの真髄である、と熱く語ると同時に、他の宗教を批判するなど、過激なところがありました。よりにもよって幕府も批判対象でしたので、流罪になってしまいました。

 

もっとも、後鳥羽上皇は専修念仏禁止令を発令して法然を制圧しましたし、親鸞にしても同じことだったので、最初のうちはみんな権力者から圧力をかけられています。

 

 

禅宗の発達

 

道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などの禅宗も起こってきますが、こちらは座禅によって自分の力で悟りを開くという教えで、念仏ではありません。弾圧のターゲットにはなりませんでしたし、武士が禅宗の気風を気に入ったので、逆に幕府から保護されました。とくに武士が好んで受け入れたので、彼らの間で普及しました。

 

「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、栄西という人でしたが、これがのちに茶道と禅が結びついて、独特な発展のしかたをしました。ほかに新しいスタイルがあらわれたのは、仏像彫刻の分野で、東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)、興福寺の無著・世親像など、運慶や快慶を筆頭とする慶派の活躍が際立ちました。





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