伊藤博文による内閣制度の成立

伊藤博文による内閣制度の成立

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自由民権運動がやや落ち着いてきたころ、1885年に内閣制度がはじまりました。その前の1882年、国会開設の勅諭が出された翌年から、憲法調査のために伊藤博文は渡欧し、日本に帰ったあと、神奈川の夏島に建てていた別荘で憲法草案(夏島草案)をつくりました。

 

伊藤博文による内閣制度の成立

 

こうしてどんどん新しい国家づくり、国会開設、憲法制定に向けていろいろな動きが起こり、内閣制度が誕生しました。もちろんご存知のとおり、伊藤博文が初代総理大臣に就任しました。ここで、自分たちが蚊帳の外にいるような状況のなか、薩長が主体でどんどん世の中が動いていくのはまずいのではないか、と、ちりぢりになっていた民権運動の人たちは、危機感を抱きます。

 

そして、大同団結運動が1886年に起こります。自由党(1884年に一度解党)と立憲改進党の二つの政党が存在している民権派ですが、なぜ二つに分かれているかというと、考え方が若干違うからです。まったく同じなら、一つになっているはずですね。

 

そこで、ちょっとぐらい考え方が違ったとしても、民権運動をしているというのは同じなので、一緒に頑張っていこうということになります。そのほうが、政府に対して抵抗するには大きな力を出せますから。





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