藤原四子の陰謀について

藤原四子の陰謀について

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藤原不比等がこの世を去った後、長屋王が政治的実験を握り、724年に聖武が天皇になりますが、どうしても藤原氏に頼ってしまうようになります。というのも、聖武天皇はまだ大人になったばかりで、父親である文武天皇は亡くなっていたし、母親である宮子は生きていて、彼の周りには武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)という不比等の子どもである四兄弟が周りをかためていたので、仕方なかったのでしょう。

 

藤原四子の陰謀について。天然痘で亡くなるまでの生涯

 

その結果、長屋王と台頭してきた藤原四子が支配権をめぐり争うことになります。藤原氏は聖武天皇の妃である光明子を皇后(正妃)にしようとしますが、それには長屋王が邪魔者だったので、729年、藤原四子が長屋王の変を起こして、陰謀により長屋王を自殺に追いやることとなります。

 

皇后には皇族の女性しかなれないという決まりが当時あったので、光明子(藤原不比等と後妻の県犬養三千代のあいだに生まれた娘なので皇族ではない)を皇后にしようとした藤原氏に長屋王が反対するのは当然です。そのため、長屋王と藤原四子はどんどん仲が悪くなり、長屋王の変へとつながったのでしょう。

 

長屋王の死後は、いよいよ藤原氏の天下と思われました。決まりを無視して藤原四子は光明子を聖武天皇の皇后にしてしまいます。聖武天皇も不比等の孫ですし、しかも不比等の孫が皇后になったので、しばらくは藤原氏は安泰と思われたでしょう。ところがそうはいきません。737年、よりにもよって四人ともその頃大流行した天然痘という病にかかって死んでしまったからです。





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