日独伊三国同盟と日ソ中立条約について

日独伊三国同盟と日ソ中立条約について

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1940年9月に、日独伊三国同盟が結ばれました。これはアメリカを仮想敵国とする同盟です。この頃はまだ、日本にとってソ連は敵ではありませんでした。日本が邪魔に思っているのは、援蒋ルートをおこなっているアメリカやイギリスなのです。そこで日本は、1941年に、松岡洋右外務大臣によって、日本はソ連とは戦争をしません、という意味の日ソ中立条約を締結します。

 

日独伊三国同盟と日ソ中立条約について

 

しかし、松岡外相と近衛首相の考えていることは違いました。松岡は『対米戦やむなし』というスタンスで、陸軍も同じ考え方でした。対して、近衛首相はあくまでもアメリカと妥協していこうとしていました。

 

この対立は、近衛が外相を更迭することで一度はおさまったのですが、そのあと、陸軍大臣の東条英機が対英米戦を求めます。これに対し、近衛文麿は日米交渉をしてみるから待ってくれと、1941年9月に御前会議で帝国国策遂行要領が決まりました。

 

これはどういったものかというと、対米交渉がうまくいかなかったら、アメリカに対して宣戦布告する、という意味です。

 

しかし、交渉はなかなかうまくいきません。日本がアメリカに反発することばかりしていたので、当然といえば当然です。結局、対米交渉はまとまらないまま、近衛内閣はつぶれてしまい、次に東条英機内閣が登場します。

 

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太平洋戦争へ突入

 

東条内閣が発足するとき、内大臣であった木戸幸一が一つの条件を出します。「とにかく日米交渉をし続けてください。そうしてくれるなら、あなたを総理大臣にしてもいい」東条はその条件をのむことで総理大臣になり、一応は日米交渉を続けます。ただ、日本の頑なな態度に変わりはありませんでした。

 

最終的に、アメリカはハル=ノートというものを提示して、こう言ってきました。「満州事変が起こる前の日本に戻ってくれるのなら、アメリカは日本と仲良くしてあげますよ」ちなみにハル=ノートとは、アメリカ側を代表して交渉をしていた米国務長官であるハルの名前を冠したものです。

 

 

具体的な内容は、中国・仏印から日本が撤退すること、国民政府(蒋介石)以外の政府を認めること、三国同盟をやめることなどでした。今まで日本は、国全体で中国進出を盛り上げてきました。もともと日米開戦に賛成していた東条にとって、とてもじゃないけれど飲める条件ではなかったのでしょう。むしろ、これをアメリカからの最終的な通告だととらえました。

 

そういう経緯で、1941年12月の御前会議で、アメリカ、イギリスとの開戦を決め、日本軍が12月8日に真珠湾攻撃をしたことがきっかけで、太平洋戦争に突入していくことになりました。





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