大東亜共栄圏を分かりやすく解説します

大東亜共栄圏を分かりやすく解説

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太平洋戦争が始まったばかりのころは、奇襲攻撃をすることが多かったので、日本の思い通りに戦況が動いていました。戦争が始まって半年経たないうちに、東南アジアの大部分を占領することに成功しました。

 

大東亜共栄圏を分かりやすく解説します

 

ただ、大東亜共栄圏の考え方を前面に押し出して、そのもとで各国の独立勢力が結託して自分から動き、それに日本が協力していくという風にして、植民地になっていた国々を独立させていれば、うまくいっていたのかもしれません。

 

そういう意味を持たせて、日本はこの戦争のことを大東亜戦争とよんでいました。「英・米」vs「日・独」というよりは、「英・米」vs「アジア連合・独・伊」になればいいなと思っていたのでしょう。

 

 

しかし、日本が戦争に対して焦っていたのもありますが、相手の都合も考えずいきなり「あなたの国を救いにきました」みないなことを言っても、真剣には聞いてもらえないでしょう。日本の行動に対して納得させなければ、支持も得られないはずです。それでは、日本が自分の力でたくさんの地域を支配していくことは難しいですね。

 

そうした状況のなか、1942年6月にミッドウェー海戦で敗北した日本は、だんだん敗北を繰り返していくようになり、戦況は悪化していきます。

 

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翼賛選挙と戦況の悪化

 

開戦当初の1942年4月、東条内閣は衆議院を解散して総選挙をおこないます。この翼賛選挙で当選したのは、大政翼賛会の推薦候補ばかりでした。そして、推薦を受けて当選した議員を軸にして、翼賛政治会がつくられました。

 

1943年、大東亜共栄圏に賛成していた東南アジア列国を代表する人々を東京に集めて、大東亜会議が開催されました。しかし、戦況がどんどん悪くなるなかで、徴兵を引き延ばされていた男子大学生まで、学徒出陣として戦場に参加させられました。

 

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ときには中学生以下の生徒まで、勤労動員というかたちで、各地の軍需工場で働かされるようになりました。さらに、女子まで軍需産業の労働者として働かされるようになります(女子挺身隊)。

 

そうしたなか、1944年7月にサイパンが陥落します。サイパンは、日本にとって絶対国防圏でした。サイパンより遠いところからだと、その頃のアメリカの飛行機でも、日本本土まで侵入して爆撃し、帰っていくということができなかったのですが、その絶対国防圏まで侵攻されてしまったということです。

 

その責任をとるということで、東条内閣は退陣せざるを得なくなります。





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