江戸の衰退・動乱期

江戸の衰退・動乱期記事一覧

徳川家斉の浪費と天保の飢饉について

十一代将軍・徳川家斉は、松平定信が老中を追われた後もそのまま残り、将軍職を1837年に息子の家慶に譲ったあとは、大御所として政治を操り続けました。年代的には、この頃は文化・文政の時代にあたりますが、大御所時代ともよびます。財政的には、松平定信のおかげで蓄えていたお米やお金があったので、少し余裕があり...

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大塩平八郎の乱とは?

1837年、相次いで起こったのは、大塩の乱と生田万の乱です。陽明学者の大塩平八郎が起こしたのが大塩の乱です。もともと大塩は、大坂町奉行所の下級役人だったのですが、飢饉で人々が困り果てているのに、町奉行所ははそれに対して何もしようとしなかったので、門弟たちと一緒に反乱を起こしました。天保の飢饉のときは...

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水野忠邦の天保の改革について

大御所時代が終わってからは、十二代将軍・徳川家慶のもとで老中に就任していた水野忠邦による天保の改革の時代です。水野の印象としては、大御所時代の暴走を食い止めるためならなんでもやった、という感じでした。大御所の家斉が死亡したのち、すぐに水野は改革にとりかかります。まずは、物価問題を何とかしなければいけ...

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天保の改革の失敗と水野忠邦の失脚について

水野はいろいろなことに取り組んでいて、例えば、物価引き下げ令で、物価をむりやり下げたりしていますし、江戸の浮浪者や、ホームレスを帰農させるために、人返しの法を発案したりもしました。松平定信の旧里帰農令との違いは、人返しの法は強制的に送り返されるところにありました。ホームレスからすると、帰るためのお金...

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江戸時代の国学・蘭学の始まりについて

ここで、江戸時代後期の文化についておさらいしておきましょう。19世紀初頭から半ばまでは、庶民文化が、江戸を中心に隆盛しました。文化、文政という年号からとって、この時代の文化のことを、化政文化といいますが、ここでは範囲をもう少し広げて見てみましょう。学問・教育の分野では、朱子学以外にも、国学、蘭学など...

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ペリー来航の目的とは何か?

黒船、いわゆるペリーが来航したのは、1853年のことです。東京湾の入り口、浦賀(いまの神奈川県)にアメリカの軍艦四隻がやってきたのですが、この来航の目的は何だったのでしょうか。1853年、もともとメキシコの領土だったカリフォルニアをアメリカが奪いました。いままで西にずっと進攻し続けていたアメリカでし...

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日米和親条約の内容とは?

結局、何の結論も出せずにいた日本に、今度は七隻の軍艦を率いたペリーが再来航します。一度目の来航から1年の猶予期間が過ぎた、1854年のことでした。相手方は常に高圧的だったので、それに屈してしまい、日米和親条約を結ぶこととなってしまいました。250年続いた鎖国政策も終焉を迎えました。日米和親条約の重要...

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日米修好通商条約の内容とは?

この時代、中国ではアロー号事件(イギリスの船アロー号が清の官憲から臨検された事件)のいざこざが戦争を起こすきっかけとなり、イギリス、フランスが勝利します。その結果、天津条約という不平等条約を結ばされるはめになります。ハリスはその話を持ち出すことで、大老に就いた井伊直弼を脅します。「アロー戦争の結果は...

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安政の大獄と桜田門外の変について

この頃、将軍継嗣問題というものもあって、それがもう一つの伏線になっていました。十三代将軍・徳川家定には子どもがおらず、そのうえ病弱でした。そこで、跡継ぎをどうするかということで、一橋派と南紀派の派閥で対立が起こっていました。御三家の紀伊藩主・徳川慶福を立てようとしたのが南紀派で、家柄重視だったので、...

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攘夷論とは何か?

なぜ、攘夷論が起こってきたか考えてみましょう。その頃は、まだまだ発展途上国だった日本の物価は、金だけでなく他のものもとても安かったのです。それだけでなく、日本人の性格が勤勉だからなのか、日本製品は安い上にとても品質がよかったので、外国にどんどん物が売れていきました。在郷商人(地方から来ている商人)た...

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幕府と朝廷の公武合体論について

桜田門外の変が1860年に起きたあと、様々な藩が出てきて、同時にいろいろなことをおこなっていくので、何がなんだかわからないという人がいます。たしかに入り組んでいるので、幕府、朝廷、薩摩(いまの鹿児島県)、長州(山口県)という四つの核について説明をしていきます。これらの考え方は、事件や出来事に応じてど...

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島津久光の文久の改革について

井伊直弼が暗殺されたあと、幕府の中心人物だったのは老中の安藤信正で、彼が和宮降嫁を実現しました。朝廷の権威が上がってきていたので、それを利用し、幕府の権力を立て直そうとしたのです。幕府がかかわると良いことがないと思っていた尊王攘夷派は、和宮の降嫁にも当然反論し、1862年に安藤信正を坂下門外で襲撃し...

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生麦事件と薩英戦争について

改革を進言して薩摩へ帰る途中だった島津久光は、生麦事件を横浜で起こしてしまいます。島津の行列の前を通ったイギリス人を、藩士が斬って殺してしまったのです。なぜ、島津は外国人を切り殺してしまったのでしょうか。島津は幕府と同じく公武合体の考えを持ってはいたのですが、薩摩藩の目指すところは、幕府のような開国...

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八月十八日の政変と新撰組の禁門の変について

1863年5月10日、薩英戦争がはじまる2ヶ月ほど前のことですが、航行中の外国船にむけて、長州藩が下関の砲台から砲撃をするという事件が起きました(長州藩外国船砲撃事件)。最初の砲撃はまったく当たらなかったのですが、そこに乗組員が小さなボートに乗って何が起こったか見にきたので、もう一度砲撃をしたところ...

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坂本龍馬の尊王攘夷運動

長州にとって大変な2ヶ月となったのは、1864年の7月から8月にかけてです。その結果、仕方なく長州藩は尊王攘夷の考えをあらため、幕府に従う姿勢を見せます。つまり、幕府の言いなりになると言い出すのですが、長州藩の下級武士たちは、これに反発します。なかには、崇高な理想を持って生きていた藩士もいましたが、...

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コ川家茂による第二次長州征討の命令

禁門の変のあとは、おとなしく幕府に従っていた長州ですが、やがて実権が下級武士にうつっていき、藩内世論も討幕派が増えていくので、当然幕府の言うことを聞かなくなってきます。そこで、将軍・家茂は、1865年の4月に二度目の長州征討の命令を出しました。そのとき、もっとも家茂が頼りにしていたのは薩摩藩の軍事力...

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公議政体論について

薩摩連合があるうえ、ともに討幕になったので、すぐにでも幕府を倒せる準備が整いました。しかし、幕府を倒して朝廷中心の政治体制をつくっていこうとしたその時に、一番大事な人が討幕に反対をします。公武合体論者である、孝明天皇その人です。一体どうなるかというと、いきなり孝明天皇が死にます。これも同じく1866...

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討幕の密勅と大政奉還について

下級武士であった坂本龍馬は、将軍に直接会って話ができるような立場にはありませんでした。そこで坂本は、土佐藩の後藤象二郎という上級武士と手を組み、土佐藩主である山内容堂を動かすことで、大政奉還をするように将軍を説得しました。山内容堂は将軍と一対一で話ができる立場にあります。大政奉還とはどういったことか...

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勝海舟による江戸城の無血開城について

戊辰戦争、つまり、龍馬が一番おそれていたことが現実となってしまったわけですが、イギリスやフランスは「待っていました」とばかりに大喜びしました。幕府側にフランスはどんどん武器を売りだしました。彼らは、武器を売って利益を得て、さらにはできることなら植民地支配や租界設定などの利権を手に入れてやろうと虎視眈...

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