織田信長の登場と桶狭間の戦いについて

織田信長の登場

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この時代は数々の戦国大名が群雄割拠していましたが、その流れを急激に変えるものが、海外から持ちこまれます。それは、1543年に種子島に伝わった鉄砲です。画期的といってもいい武器でしたので、国内で生産もおこなわれるようになったほど、あっという間に日本中に普及しました。その中でも、最もこの武器を有効に使ったといわれるのが、皆様もご存知の織田信長です。彼はいわゆるこの時代のスーパースターですね。

 

織田信長の登場と桶狭間の戦いについて

 

様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。当時のほとんどの戦国大名は、他の人の土地を奪って領土を広げていくとか、下克上をしてそこの支配権を自分のものにするとか、そういったことばかり考えていました。

 

しかし、全国を統一するという目的をはっきりもって京都を目指した人は、信長が登場する前にはいなかったといっても過言ではありません。

 

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桶狭間の戦いとは?

 

織田信長の行動した時期は、大まかに三つに分けることができます。信長が京都に上るまでの段階(1560〜68年)が第一期。京都での対立の時期(1568〜73年)が第二期。そして、武田を討伐して本能寺の変までの時期(1573〜82年)を第三期とします。

 

まず、京都に上るまでの第一期(1560〜68年)について説明します。織田氏は尾張(いまの名古屋)の守護代を務める家系でしたが、駿河や三河の勢力が東で控えていました。京都に上ることを目的としていた信長でしたが、織田氏が引き連れている軍勢の数だと、全力で攻めていかないと難しいくらい人手が足りませんでした。

 

 

しかし、京都に上るためだけに自軍のすべてを費やしていると、背後ががら空きになってしまいます。誰がどこから、いつ攻めてくるか分からない時代なので、非常に危険です。そこで、信長はまず、背後から攻められる可能性をゼロにすることを考えました。

 

その頃、甲斐(いまの山梨県)を支配していた武田氏とは不戦条約を結んでいたので、彼らと手を組み、1560年の桶狭間の戦いにて、駿河の今川氏を討伐しました。さらに、お隣の三河にいた松平元康(のちの徳川家康)とは清洲同盟を組むことで、背後から襲われる可能性をなくしました。こうして、上洛に全力を費やすことができるように、基盤をつくっていったのです。

 

 

しかし、名古屋から京都までの間には、関ヶ原などの難所もあります。現在でも大阪から東京へ向かう途中、新幹線が関ヶ原の近くで雪のせいで遅れてしまったりすることがあるくらいです。このまま一気に京都に行きたいところですが、名古屋からは少し無理があるということで、信長はもうワンステップ踏むことにします。

 

拠点が尾張のままでは、京都まで遠いので、美濃(いまの岐阜県)に変えたほうが何かと動きやすいので、美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城を岐阜城と改め、ここを拠点として活動することにしました。そして、そこから一気に山城(京都南東部)に上ろうと信長は考えたのです。





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