陸軍統制派と陸軍皇道派の対立について

陸軍統制派と陸軍皇道派の対立について

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犬養首相が殺されたあとは、軍部内閣(斉藤実内閣、岡田啓介内閣)となった日本は、満州国承認、国際連盟脱退、ワシントン体制からも脱却していき、孤立していきます。一方、朝鮮へは日窒コンツェルン、満州へは日産コンツェルンが進出することで、景気自体はどんどん良くなっていきました。

 

陸軍統制派と陸軍皇道派の対立について

 

現代でも同じことがいえますが、世の中の景気がいいと、国民はその時の政治を信じる傾向にあります。軍部政権が国民から支持されたとなれば、もう勢いを止められる勢力はなくなります。

 

1920年代に恐慌がよく起こっていたときは、ワシントン体制の枠組みにいたわけですが、そこから脱却したらどんどん景気がよくなっていったので、「ワシントン体制にしばられている状態を続けなくてよかった」というのが、財界、政界、軍部の一致した意見となっていきました。

 

そして、こうやって官僚や財政と関係を持つことで、軍部の力をより強力にしていこうというグループが出てきます。それが陸軍統制派とよばれるもので、統制派は高度官僚国家を目指していました。

 

 

それに対して、直接行動を通じて天皇を軸とした政治体制をつくっていこうとするグループが、陸軍皇道派です。陸軍内部で派閥が二つに分かれたわけですが、この両派が対立していくこととなります。

 

こうした陸軍内部の派閥争いが外部にまで発展し、皇道派の青年将校が中心になって起こしたクーデターが、1936年の二・二六事件です。





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